関澤義課長の想いで

はるか昔のことですが、新入社員の頃のことは忘れられないものです。
●関澤義課長の想いで 2021/1/29

昔の上司山田さんから、1月20日に関澤さん(*1)が亡くなった旨のメールが届いた。関澤さんは、私が富士通に入社し最初に配属された衛星通信研究部の課長だった。当時は次長という肩書が部長と課長の間にあり、次長と課長を兼務していた。部長は雄城(*2)さんだったが、雄城さんが戦略を練り関澤さんが切り込み隊長のような役柄だったと思う。席は私の真ん前に(*3)あるのだが、殆ど席にいたことは無く、海外だったり、顧客廻りだった。たまに帰ってきて、溜まった書類の整理や部内会議などをしていた。同期入社の友人秋山君も「関澤さんは殆ど席にいないね」と言っていたから間違いない!
*1:富士通では課長だろうが社長だろうが"さんづけ"で呼んでいた。思い返しても良い会社だった。
*2:別の"想いで"を書いている。
*3:私はよく居眠りするので、課長の真ん前に座らされていた。

その頃、多くの会社では親睦目的の課内旅行があった。その旅行には勿論課長の関澤さんも参加し箱根の宿で皆で膳を囲み酒を飲む。ところが関澤さんの隣には誰も煙たがって座らなく、新人の私が指名され関澤さんの盃に酒を注ぐことになった。その時関澤さんから聞いたのは、終戦直後の麻布中学(後の麻布高校)の話だった。当時麻布では関澤さんの一学年上にフランキー堺と小沢昭一がいて、体育館の木壁をはがして焚火をしたりなんだかんだと問題を起こしていたそうだ。まあ関澤さんとフランキー堺では、全く肌が合わないと思うが!東大でのサークルは自動車部に入り「大型免許も持っているぞ」と自慢されていた。

関澤さんが重役になったばかりの頃、川崎工場内でバッタリ会ったことがある。「おい、今何やってるんだ?」との関澤さんからの問いかけで始まった会話だったが、どうにもその後が思い出せない。当時私は苦境にあり、支援をお願いすればよかったかもしれないが、どうにも切り出せなかった。どちらかと言うと関澤さんはクールな人で、情実人事は無かったと思う。入社当時の研究所のメンバーの多くはその後も苦境を漂っていたし、大出世した人は無い。

その後、関澤さんは社長になり、富士通の組織や商品を刷新した。ただ問題だったのは、あるバカな著名コンサルタント(*1)の言を信じ赤字や売上の少ない商品をどんどん切り捨てたことだ。米国では人材や資本が流動的で、ある時解散、ある時再編で人物金が柔軟に集まる。一方、我が国では米国の真似をしたところで風俗習慣等基本的な違いから到底うまくいかない。それまで富士通にはコンピュータ・デバイス・通信と三つの柱があったが、その後今日に至る30年今や誰でも出来る陳腐なコンピュータシステム構築サービスのみが主力商品で凋落の一途(*2)だ。関澤さんと最後に会ったのは数年前衛星通信研究部の仲間が集まった際のこと、新入社員時のように私は隣に座り酒を注いだ。関澤さんの趣味だった自動車の話になり、高齢につき運転免許は返納したと聞いた。
*1:ジャック・ウェルチの経営手法の物まねだった!
*2:最盛期には5兆円をはるかに超える売り上げだったが、今や3兆円台。技術力も低下し新聞紙第一面をにぎわすシステムダウンを何度も引き起こしている。もっとも現況は関澤さんの責任でない。関澤さん以降の経営陣の体たらくで今も富士通は縮小均衡が実情だ。
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