テレサ・テンの想いで

新入社員の頃のことです。K君もM君も元気で頑張っているでしょう?
●テレサ・テンの想いで 2021/09/27

テレサ・テン(*)は、私が大学院生だった頃表参道の喫茶店でウェイトレスをしていた。当時の彼女は台湾から来たばかりでまだカタコトともいえない日本語だった。だから彼女との会話は英語になった。ところで、私は喫茶店に行くことはまず無かった。なぜなら、コーヒー一杯に百円を払うのは不経済との考えで、学生の頃の仕送りは2万5千円/月だったし、初任給の手取りもちょうどそれくらいだった。それでも何かの都合で、たまに行くこともあった。当時の仕送り額だが、アルバイトをしなくともやっていけたからそれなりだったのだろう。ただ、お袋に言わせれば、当時の給与の手取り半分を仕送りしていたという。子を想う親心!
*: ケ麗君 (1953年1月29日‐1995年5月8日)

さて、テレサ・テンは喫茶店によく来る私の友人K君に興味を持っていたようだ。客が少なく暇な時にはなんだかんだと我々に話しかけてきた。K君も私も日常会話に困らない英語が喋れたので彼女は我々とのコミュニケーションを楽しんでいたが、特にハンサムなK君へのアクセスが多かった。その後、彼女はいつの間にか喫茶店から消えた。ところがある日、中華そば屋でラーメンをすすっていたら突然テレビで彼女に再会したので大変驚いた。つい先ごろまで喫茶店でお喋りしていたウェイトレスが、澄ました顔してテレビ画面で歌っていたのだ。

K君は一旦卒業し女子高の英語教師として赴任したが、1年で学校に戻ってきた。経済学部卒だったが、英語を勉強したいと英文科に再入学した。私は彼の言動に都会のお坊ちゃんの豊かさを見せつけられた。その後彼はある大学の付属高校の英語教師となった。私は田舎育ちの田舎臭プンプンだったが、彼は山王に住み東京育ちの典型的なお坊ちゃん。クルマはアルファロメオに限るといい、セダンとスポーツカーの2台の真赤なアルファロメオを持ち走り回っていた。卒業してから数年後、私はあるキッカケでサーフィンを始めたが、K君と話していたら彼は叔母さんがハワイに住んでいて学生の頃毎夏休みワイキキでサーフィンをしていたという。その後、彼とは何度も七里ガ浜や稲村ガ崎でサーフィンをした。

テレサテンの話に戻るが、彼女が喫茶店から消えてから我々とのコンタクトは勿論全く無い。そもそも接点と言えるようなものでなく単にすれ違っただけだから。今考えると、彼女の喫茶店のアルバイトは日本に慣れる為のスクーリングだから、勿論無給だったろう。彼女は初来日の時点で中華圏では成功していた歌手とのことで資金的問題も無かったはずだ。それから何十年か後、亡くなったとの報道があって、その言動がテレビで特集されるようになり、"アジアの歌姫"と呼ばれていたことなどを知ったが当時の私は既に音楽から卒業していた。

話は少々戻り、私が就職し田園都市線(*)藤が丘駅前の独身寮にいた1974年頃のこと、隣部屋のM君が発売されたばかりのテレサ・テンのLPレコードを買ってきて『この歌手は最高だ』と言った。彼の夢を壊すと悪いと思ったから、『俺は彼女と話したことがある』とは決して言わなかった。彼はいつも呑んだくれていて、お小遣いは全てソープランドに献上していた!平日はほぼ毎日のように最終電車が終了後新橋の飲み屋から富士通第三藤が丘寮までグテングテンに酔っ払ってタクシーで帰ってきていた。テレサ・テンが亡くなり、いい加減男のM君が後年従業員数百人を擁する会社の社長になるとは当時の私には夢想だに出来なかった。
*:当時の田園都市線は未だ住宅開発が進まず、溝ノ口より先は夜9時を過ぎるとガラ空きだった。藤が丘駅前は空地で、沢山の車が違法駐車していた。その後、沼津工場に出張することもあったが、新横浜駅前の道路も無料駐車場状態で気楽に違法駐車していた。思い返してもまだまだ日本は貧しかった!
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