RIS発明の経緯

1973年青山学院大学電気電子工学科修士課程を卒業、富士通株式会社に入社。研究所をかわきりに本社・子会社などを転々。サラリーマンとしての最後は、株式会社両毛システムズにお世話になりました。全てを語れば、数冊の本になりそうですが、主たる発明について備忘録的に記述しました。

様々な局面で心温まる御指導をいただいた上司・同僚の方々に深く感謝いたします。また、不運にも私の部下になられた方々には指導らしきことも出来なく、また不適切な指導をしたことも深くお詫び申し上げます。

この記述は、勿論私の一方的な思い込みにより形成されています。もし間違いなどがあれば教えてください。私は今やなんのわだかまりもこだわりもありません。単なる齟齬は、もう一度飲めば軌道修正できると思います。是非お声がけください。
RIS発明の経緯          2009年某日記述開始   鎌田紳二

はじめに

大人になってからもずっと夢の世界をさまよっていた。年老いた今でも夢想という快楽を絶つことができない!RISの開発を始めた頃40を過ぎていたが、それ以前はあれが出来れば良いとか、これが欲しいなどと、実現可能性が全く無いむなしい日々だった。しかし、ふと思いついたRISが、ある方の御支援により実現することとなった。この記述はRIS(Remote Install Service)発明の経緯であり、なぜ思いついたか、その開発には誰が関与し、どのような最後を迎えたかということを備忘録的に記述した。RISとはオンラインでソフトをインストール配布するというサービス技術で、現在多くのパソコンユーザが使っているマイクロソフトのオンライン更新機能"マイクロソフトアップデート"はこの技術そのものである。この開発は、主にパソコン通信の最盛期からインターネットへの転換期に実施され、私の31年間の富士通における仕事の中で最も夢と希望とリスクに満ちあふれた期間だった。

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目次

第1章 夢プロジェクト
 1.1 プロローグ:1992
 1.2 プロトタイプ完成

第2章 本社へ転勤
 2.1 転勤命令:1993年
 2.2 新プロジェクト発足:1993年9月
 2.3 プロジェクト発足前後の状況
 2.4 体制構築と初期の開発環境:1993年終わりから1994年初め頃
 2.5 協力会社と当時のシステム環境
 2.6 RISシステム概要
 2.7 天才プログラマ達

第3章 開発の状況
 3.1 MO鍵開けシステム
 3.2 米国ベンチャーとの提携
 3.3 仕事外のこと
 3.4 SGML
 3.5 SPIRIT
 3.6 General Magic

第1章 夢プロジェクト

1.1プロローグ:1992年

私は富士通ドキュメントサービス鰍ノ出向中で、機械翻訳センター課長だった。この年富士通では社内組織活性化を狙って、夢プロジェクトコンテストと称する新商品のアイディアコンテストが開催され、入選作には自分が提案した商品企画と権利が与えられるという。私のチャレンジングな性格が、このような千載一遇のチャンスを放っておくわけが無く、これにエントリーしたことがRIS開発への道に繋がった。

この頃インターネットは、国内の先進的な大学では既に使われていたが、電気電子系の一部学生が大学のメールアドレスを持っている程度だった。ブラウザの簡便なものも無く、最も深刻だったのは国内における商用利用が厳しく制限されていたことだ。そういうこともあって、パソコン通信が全盛で、Niftyではフォーラム(*1)が活況を呈していた。なかでもフォーラムに付随するフリーウェア(*2)が一般化しつつあった。フリーウェアはパソコン雑誌の付録CD-ROMまたはパソコン通信経由で手に入ったが、ソフト作者の即応かつ手厚い対応がパソコン通信活況の一助ともなっていた。
 *1: 特定テーマにフォーカスしたBBS(掲示板)
 *2: プログラムマニアが作成した無料ソフトウェア

しかし、多くのフリーウェアはインストールする際に解凍がどうの、ディレクトリがどうの、実行時には特定のライブラリが必要だのと、おまじないをはるかに越える難解な自前の設定が必要で、およそ素人に手が出せるようなもので無かった。そこで、ネットワーク経由で自動インストール配布すれば、誰でもフリーウェアを簡単に使うことができるし、やっかいなバージョンアップも自動でできると考えた。ソフトウェアのライフサイクルサポートをオンラインサービスで、それもフリーウェアならばコンテンツもアップデートも無料で提供できるのだ。この発想こそがRISの原点である。

この時点でRemote Install Serviceという名称に決めた。その後、多くの人からなぜSystemでなくServiceなのかと聞かれたが、当時は世の中がサービス志向だったからだ。後年、このネーミングが正しかったことが意外なことから証明された。実はマイクロソフトがWindows2000サーバにRISと全く同じ機能を組み込んだのである。この名称がRemote Install Servicesだったのだ。マイクロソフトは、RISの特許のみならず名称までも抵触していたことになる。マイクロソフトのRemote Install Servicesはその後、Windows Updateに改名し、さらにMicorsoft Updateとして現在世界中の殆ど全てのパソコンユーザがその恩恵に浴している。また、アンチウィルスソフトや数多くの商用プログラムがその更新のために、RISの機能を使っている。この特許は、来年にも20年の特許有効期限に到達し誰でも使えるようになる。そうなると、Linux系の有料アプリケーションのアップデートも全て自動的に行われることになり(*)、マイクロソフトはWindowsの延命が益々困難になるだろう。
 *:Linuxの課題は、インストールにもあるが、実際はアップデートにある。素人がLinuxを使いながら、いつの間にか最新版に更新され、同時にバグも訂正されれば、はじめて"皆のLinuxになる"この恐ろしい展開をビジネスチャンスと捕らえる方は連絡を乞う。私も次の展開を考えているが、残念ながら現在私が経営する会社には人・物・金の全ての資源が不足している。

さてそこで、夢プロジェクトに応募すると共に、仲間として富士通の社内同好会であるマイコンクラブのDとKを引き込みたく、この発想に対する意見を聞いた。Dは「いけると思う」だったが、Kは「どうかな」との返事だった。その後、私自身はやる気ムンムンで夢プロの応募要綱やテンプレートをダウンロードして文章を推敲したり、多くの友人知人と可否を議論するなどの日々だった。夢プロの審査状況は審査に関与していた友人のマル秘情報だと最初の関門を通過したという。私は独身寮に2年間いたことと、その際無理やり1年間寮長をやらされたことなどで社内のあらゆる部門に知り合いがいた。
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1.2 プロトタイプ完成

そうこうするうちに、Kがフリーウェアのゲームソフトをホストからパソコンにネットワーク経由で送り自動的にインストールする、MS-DOSのバッチファイルで動くプロトタイプを作った。圧縮されたソフトを電話線経由でバイナリ転送し、解凍し、インストーラをキックするという、従来手でやっていたことをバッチファイルに記述し、エンターキーひと押しで総て自動的にネットワーク経由でPCにインストールできたのである。作られたものを見れば、"エッ!こんなに簡単に作れるの"と思うほどだったが、実はこれが世界初のRISであり、高々1200bpsのスピードだったが、思いつきが実証できたのだ。私はKの有能さに感心すると供に小躍りして喜んだ。

このプロトタイプをパソコン部門を統括されていた私が師と仰ぐある方に見ていただきたいとお願いすると、快く対応してもらえた。その後、紆余曲折はあったがパソコン関係の事業部長や副社長にまでもデモをすることになった。この時点で夢プロジェクトという話しは立ち消えになり、後に全社プロジェクトに組み込まれることになった。思い返せば、子会社の一課長でしかない私の思いつきを副社長にまでも手配いただいたことはどれだけ感謝してもしきれるものではない。従業員数万人規模の大企業の富士通だが、かつバブル崩壊の直後だったが、それだけの柔軟性と余裕があったということだ。

このころは帰宅し夕食を済ませたら直ぐに深夜までRISの仕様書を書くのが習慣だった。RISTERMとRISHOSTと名づけ、端末とホストの仕様を考えていた。世界中のPCビギナーに無料ソフトを自動配布するという夢があったので、ちっとも苦にならなく、むしろ楽しかった。クライアントはどういう画面にするか、どういうライブラリが必要かなど真剣に検討していたが、後になって所詮素人考えというか自分が持っていた従来の枠から抜けきれてなかった。これらのコンセプトはともかく、そのやり方は後に最新テクノロジを持つ若い天才プログラマ達に覆されてしまったのである。当時私が持っていた技術は無手順TTYとそれに付随するバイナリ転送プロトコルなどであり、実は枯れつつあった。その頃日本ではインターネットが一般開放されてなく、さりとて専用線サービスとそれに付随する技術は大変高価かつ柔軟性もなく一般ユーザには使えなかった。

パソコン通信トップのNIFTYも同様、ひたひたと迫り来るインターネットという怪物に顔を背け、ひたすら無手順でわが世の春を謳歌していた。当時米国では、アメリカオンラインが独自GUIで1千万人以上のユーザを抱えていた。コマンドライン入力をベースとするCompuServeもそれなりのユーザを抱えていたが、後者は前者に買収されWebベースのポータルサイト/プロバイダとなり、さらにTime Warnerを統合し、AOLTimeWarner社となった。しかし、この会社もAOLとTime Warnerが再び分離するなど、インターネットという怪物に翻弄され、さらにこれから先全てが飲み込まれ溺死してしまうかも知れない。誰も想定できなかった業界再編が技術の進歩によって粛々と進展していく状況に、私は背筋が寒くなるような感覚が蘇る。そしてあらゆる変遷は密かに、さらにたった今一瞬にも進行しているのだが、果たしてどれだけの人が認識しているだろうか?
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第2章 本社へ転勤

2.1 転勤命令:1993年

この年の4月突然、出向中の富士通ドキュメントサービス階専務から本社への転勤命令。本社技師長のNさんが私を欲しいと言ってきたので、即受諾されたそうだ。富士通ドキュメントサービス(FDL)でやれることよりも大きい仕事を本社に行ってやれとのことだった。当時は、私が起案し富士通研究所:言語研究部のC部長などに協力をお願いし、システム構築などを進めたパソコン通信ネットワークベースの"機械翻訳ネットワークサービス"が軌道に乗り、国内のみならず海外からもアクセスがあった。

川崎駅近くの富国生命ビル5階事務所の片隅にSUNワークステーションを数台設置し、これが世界初のネットワーク機械翻訳サービスのシステムサイトか?と思われるような環境でニフティーとアスキーネットに24時間サービスをしていた。この機械翻訳サービスは、初年度黒字の全く人手のかからない、絵に描いたような儲かるサービスとなっていたが、残念ながらFDLに残していくことになった。売上げを3年以内に10倍にし関連ビジネスを含めて世界に打って出るなどとプランを練っていたこともあり実に心残りだった。新天地は南町田で、パーソナルビジネス本部コンシューマ商品事業部長付という部長級の待遇となった。(ネットワーク機械翻訳サービスについては別途詳述する。)

通常の会社だと〜課長や〜部長と呼ぶが、富士通では〜さんだ。入社したときから、社長でも〜さんと呼ばれていたから社外の人から面白がられたことがある。だから部長級になっても意識的にはなんら変わることがなかった。富士通は私が入社時には大企業になっていたがオープンな雰囲気で、誰から聞いたか忘れたが、当時IBMとの著作権紛争で総指揮を執っていたT.Y社長が成田でトランクをガタガタ引きながら右往左往しており、声をかけたところ待ち合わせした誰かを捜していたとのこと。社長でも取り巻きに成田まで見送らせるということは無かった。少々脈絡は変わるが、私が入社時(*)衛星通信研究部に配属されたが、O部長は普通の通勤用カバンよりも少々大きい程度のカバンでアメリカに出張していて驚いた。当時アメリカへはビザが必要で、羽田からアラスカのアンカレッジ経由で入国した。まだまだ海外旅行は夢の世界だったころの話だ。
 *:1973年

配属されたコンシューマ商品事業部は田園都市線南町田駅から徒歩10分くらいのところにあり、当時富士通のコンシューマ向け商品の代表だったOASYS(ワープロ)とTOWNS(パソコン)の二本の柱で売上げを立てていた。おのおの1千億レベルの売上げ額で合計2千億を越えていた。事業部長はOさんで、私は事業部長のまん前に座らされた。顔を上げると事業部長と目があうので、毎日気まずい思いをしていた。肝心の事業部長からは仕事に関し何の指示もない。とにかく何もしないで座っている日々が続くのである。うすうす感じてはいたが、後に述べる特別プロジェクトのスタートを待っており、Oさんとしては私がもし事業部の仕事を始めてもある日突然中断することになるのがお嫌だったのだろう。

退屈で仕方ないので、隣に座っている担当部長だった旧知のMさんに「何かお手伝いできないか?」とお願いしたり、知り合いだった事業部のN課長に頼んで勝手に仕事に手を出したりしていた。ある日彼は、事業部長からストップ命令が出たといってご破算になった。それでもMさんに頼んで、LINUXベースの今で言うタブレット端末の設計をさせてもらった。私を買ってくれていたMさんは自らO事業部長に私への仕事をお願いしてくれたのだ。試作レベルまで行ったが、当時はCPUや電池の性能が非常に低かったので商品化できなかった。今考えても、先読みのできる人達に囲まれていたと思う。CPUの選定やプリント基板起しなどハードを担当した外注会社の社長さんは私と同世代で元富士通勤務のそれもなんと商業高校出身、好きだったハードへの夢を断ち切れず会社を起こしたとのこと、私とは大変気があった。その会社は新横浜にあったが、試作品へのソフトインストールなどで何度かお邪魔した。富士通では、東大や京大を出た優秀なエンジニアとも仕事をしてきたが、学歴として目立たない高卒エンジニアも彼らと対等、場合によっては超えることもあることをこの目で見てきた。勿論だが、東大卒の優秀性は標準偏差の母平均からはるかに離れていた。O事業部長、M担当部長、OASYSのT部長、TOWNSのT部長となぜか私の周りは全員東大だった。OASYSのT部長とは気が合い良く二人で飲み歩いた。TOWNSのT部長は後年副社長になった。M担当部長はベンチャーの社長をやっている。
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2.2 新プロジェクト発足:1993年9月

突然ソフトセンター部のM部長から連絡が入り、「近々ソフトウェア流通プロジェクト部という組織が編成される」とのこと。部長はMさんで、私は技術の担当部長とのことだった。全社的に、いくつかの開発テーマが社長直轄の特別プロジェクトとして組織化され、その一つに私が起案したRIS(Remote Install Service)が採用された。この頃、もっぱらコンセプト打ち出しに御熱心だったS部長はMOをベースにした超流通(SD:SuperDistribution)というコンセプトを唱えていた。ソフトのみならず音楽や映像も暗号化してMOに乗せて流通させ、復号パスワードを売るというもの。これと私の唱えるRISとが似ている(単にソフトを配布することだけだが!)ということで同一視する、技術に不明な人達がおり、これが後に大騒動の種となる。

勿論、RISは現在主流のオンラインソフト配布技術だが、暗号化して媒体で配布し解読キーを売るビジネスは存在しない。何が正しいかは、単なる技術論であったとしても、このように最後は歴史が証明する。あらゆる主義主張や争い事がそうであるように!但し、間違いに気づいた時には全ての資源を食いつくし人心恟恟となり回復不能となる。しかし、RISは技術や特許が富士通に残ったので良しとすべきと今では考えている。嗚呼無駄な戦いをしたものだ。今でも当時を思い返し、どうすれば良かったかと自問自答するが、時の経過を待つしかなくその経緯は後ほど詳述しよう。強弁に自己主張した技術に不明な部長さん達は今どこで何をしておられるのやら!

M部長からの連絡と同時に、旧知のDとKに声をかけ新プロジェクトへの移籍をお願いしたが快諾してもらえた。Dはマイコンクラブで、Kはスペイン語訓練コースで一緒だった。それと同時に、Kが同期入社のNに声をかけOKとなった。一方、Dは同僚のZからも移籍の内諾を得ていた。この後、当時言語研究部に所属していたK、M、Tなどに声をかけることになる。内々には、このプロジェクトは社内ルールを無視した超法規的なもので、やりたい人がいれば誰でも引っ張って来れる(*)とのことだった。さりとて、誰でも良いわけでもなく。長く子会社に島流しで、管理職になったのも40歳近かった私を信頼してくれる人達がそれほど居るわけも無かった。
 *: 超法規とはいえども優秀な人材を引き抜くのだから大変な抵抗にあい、二度と口を利いてくれなくなった旧知の部長もいた。

話は少々戻るが、子会社から本社に移ることが決まった頃、SUNワークステーションをベースにした既存プロトコルベースのRISトライアルシステムのサーバ仕様書(*)とクライアント仕様書(*)が出来上がっておりヒューマンインターフェース株式会社の池上さんにコーディングしてもらい、これを使ってパソコン事業部があった南多摩工場のソフトセンター部にRIS担当として異動していたNとSがデモを手伝った。社内のいろいろなところへノートPCを持ってデモに廻るのだが、電話機や回線の種別によりデモに失敗することもあった。同時に私は本番用RISの機能設計などを行っていたが、前述したようにいわゆる無手順TTYでどういうふうにRISを実現するかという検討だった。つまりZMODEMなどのように既に確立しているプロトコルを組み合わせてどうにかしようと考えていた。しかし、この"レガシーなシステム"が後にある局面で大活躍することになるとは夢想だにしなかった。
 *: "夢プロジェクト"に応募以降、筆者が毎夜夢を見ながら書いた大作

時間の経過と共に、組織固め、つまり人が問題となってきた。M部長はソフトセンター部から完全に手を引き、ソフトウェア流通プロジェクト部の仕事をしていたが、部員はNとSしかいなかった。それゆえ、ビジネスプラン、機材購入、デモ作業などあらゆる仕事が二人の肩にのしかかってきた。そこで誰でもいいから手当たり次第に勧誘しようということになり、どんどん手を広げていった。しかし結局、核となるメンバーは私の旧知のみとなった。前述したように特別プロジェクトでは、社内組織の壁を越えた人材登用が可能とのことで、独自に勧誘することができた。しかし、社内報で大々的に募集できるのでなく、個人的な一本釣りになる。DとOは二つ返事でOKだったが、Kは抱えている研究テーマの方に魅力があったようだ。ところが、彼の同僚のTとMにデモなどをし勧誘したところMが興味を示してきた。彼はちょっと見とっつきにくそうだが、私がRISのコンセプトを説明し始めると意気投合、来てもらえることになった。この三人がRISの立役者となるのである。それぞれが得意とする分野は、Dはハード、Kはハードとソフト、Mはソフトと実にバランスが良かった。その上、Kにはマネジメントと会計の能力もあったので私の重大な欠点をカバーしてくれたことは実に幸いだった。
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2.3 プロジェクト発足前後の状況

富士通ドキュメントサービスでは、既に述べたように私はUNIXべースの機械翻訳システム(ATLAS)を運用していたが、私が作成に関与したのは"ATLASを外部のネットワーク(ニフティーやアスキーネット)と接続するプロセス"や"ATLAS自体のバグを回避し再起動するプロセス"だけだった。当時のATLASは何かの問題が起きると、システムダウンする。そうすると、人手で再稼動するしかなかった。そこで、バグを回避し自動的にシステムが再起動する仕組みを考え、その仕様書を書き外注会社(*)にコーディングしてもらった。実質的に部下と言えるような人も居らず、当時運用はたった二人の年長課員のNさんとSさんに昼間の監視を頼み、休日と深夜の監視は私にかかってくることから体力的に耐えられなかった。このことが上記のシステムダウン回避の仕組みを考えつかせた!まさに"必要は発明の母なり"である。
 *:ヒューマンインターフェース株式会社の池上社長で、前述の"レガシーなインストールシステム"のコーディングも池上氏による。メインフレーム、UNIX、PCとオールラウンドプレーヤーだった。

当時、上記のATLASのバグによるシステムダウンを回避する仕様書やソースなどを一式事業部に提供したが、その後かなり経ってからパソコン版ATLASを使っていたら、上記の仕様書に記載した私が独自に考えたエラーメッセージがそのまま表示されたので大変驚いた。このことは、当時C言語で記述したエラーリカバリルーチンがそのまま製品に反映されていたことを意味する。それだけ私のアイディアも池上さんのコードも良かったということだろう。自慢話になるが!なお、この仕組みは簡単で、機械翻訳では各文章毎に翻訳するが、ある文章でシステムがダウンすれば、その文章より前に翻訳済みの文章をキープしておいて、再度システムをスタートし、その文章を回避し、再び次の文章から翻訳するというもの。今となっては特許申請しておけばよかった!

今は無い富士通南多摩工場についても記述しておく。南武線南多摩駅のすぐ側にあった古い工場で、当時は富士通のパソコン部門が占拠していた。弱小ベンチャーだった頃のマイクロソフトのビルゲイツ氏は、CP/MからMS-DOSへの切り替えを富士通に依頼する為、この工場に来て私の師匠にあの特徴のある甲高い声で「MS-DOSの採用をお願いしま〜す。」と叫んだことは知る人ぞ知る話である。当時の富士通はマイクロソフトとはくらべ物にならないくらい優位性を持っていた。マイクロソフトについて言うとターゲット商品と経営がバランス良く進展し、PCの普及に比例して出来たばかりの微小ベンチャーがあっという間に世界一の会社になったのだ。このように躍動する技術の世界で働けたことは、エンジニア冥利につきる。ただ、今や老齢の私にはビルゲイツさんの追い落としは不可能だが???現在経営する微小会社だけでもどうにかしたいものだ。

当時は個人的な趣味だった社内マイコンクラブの活動も活発にやっており、創立記念日には必ず川崎工場でデモをしたり、通信機能が常備されてないマーティーの為に、TOWNS用フリーウェアをフロッピーディスクで配ったりしていた。社内ネットの掲示板(BBS)で"あげます"と記事を出せば、必ず多くの問い合わせがあった。TOWNSやマーティの販売促進に少しは役立ったかも知れない。なお、上記マーティーとは、PCとゲームマシンの中間のような一般顧客向け商品で、テレビに接続できた。今の時点で考えると、このような商品をマーケットに出すだけの余裕が当時の富士通にはあった。私が古巣に望むことは、一時もてはやされた「選択と集中」を取り間違えて、手を切りとり、足も切りとり、身動きできなくなるということの無きよう望む。

副社長が出席される特別プロジェクト会議が何度もあり、「早く新会社を設立せよ」と仰っていた。夢プロジェクトでも既に何社か設立されることが決まっており、その流れに沿ったものだろう。当時の会議には、G課長、N研究所取締役、M部長、O管理部長(O常務)など全プロジェクトの部課長と関係者が出席していた。我々としては、ネットワークインストールサービス会社として"RIS派"が、鍵付きソフト販売会社としてS部長の"超流通派"がそれぞれ分かれてやればいいと考えていた。実はその頃から"超流通派"のいい加減さが鼻についてきていた。例えば、超流通と関係なくSGMLやCALSなど当時の最新技術で、少しでも美味しそうな香りがすると何でもかんでも取り込んでしまい、その整理もできなかった。最も深刻だったのは、そもそも物を作れる人がいないので技術論もなく理想や願望の羅列だった。元来技術論は、論文や仕様書なくして次に進めない。学校で教わったように記述(記録)されたものがその基盤となるのだ。仕様書らしい仕様書も書けないのでは議論のしようも無かった。S部長が良く使う用語は"魂"だったが「それを仕様書に起こせ!」と言いたかった。少なくとも私が学んだ工学の問題は"魂"では解決できない。

特別プロジェクト部は6つ編成されたが、現在でも組織として形が残っているのは私と仲の良かったコンシューマ商品事業部で隣に座っていたM担当部長のプロジェクトから独立した"株式会社ライフメディア"のみである。生きながらえた訳は、メールを使うことだった。つまり、Eメールは既にこの時点でほぼリアルタイムで着信したし、文書の送受に特殊な装置や広帯域は不要だった。新技術やGUIを使って分かりやすくなどと考えず、レガシーなメール機能を使って、商品やサービスに対するコンシューマの評価を集め、マーケティングに使おうということだった。少々早いが、ここで私なりの総括を述べるとすれば、企業は

・トップによる経営判断によってのみ勝機を得ることができる
・決断は早すぎても遅すぎても戦いは窮地に追い込まれる
・困難な戦いの中においてでも、じっくりと温存すべき商材もある

のである。この時点ではまだYahooさえも存在しなかったのだから。このプロジェクトでは実に大企業の決断プロセスのもどかしさを感じた。
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2.4 体制構築と初期の開発環境:1993年終わりから1994年初め頃

この頃主要メンバーのみならずソフト開発専業の協力会社なども決まり、部の体裁が整ってきた。全体で25人の部で、今でも全員の名前を列挙できる。よくまとまっており、また全員の力と特性も互いが把握できていたので全ての話が速かった。議論しているというよりも合いの手を打っているような調子でドンドン仕様が決まっていくのだ。一方、ソフト作りにノウハウを持たない人も、それぞれの個性を主張して立ち位置を確保していくという、私がマネジメントとしてどうこうということは何も無かった。若い技術者は経験年数の無い人や少ない人が殆どで、一抹の不安を抱えた船出だった。ところが、中核三羽ガラスのK、K、Mの技術指導と、経験豊かな協力会社の参加によって状況は一変するのだ。

優秀な経験者が全体を引っ張っていき、新人や未経験者も黙ってられなくなった。大事件が勃発するまでは本当に活気にあふれた良い組織だった。週に一度、事務所の隅の10畳程度の狭い部屋に開発者全員が入ってRISプロトコル仕様検討会が開かれた。しばらくは私も参加していたが、何度か出張などで抜けているうちにプログラムの詳細な約束事が理解できなくなり、その輪からはじき出された。最初は、ステートレス、高機能端末、低機能端末というような議題からスタートし、最終的にステートレス、つまり高機能端末(*)に統一となった。この時点で、私が池上さんと作ってきた無手順の端末とホストはお蔵入となった。
 *: 今で言うと、オンラインインストール専用ブラウザと言える。アメリカオンラインのシステムとブラウザをたった25人と協力会社2社で作ってしまったようなものだ!

開発手法としてNIFTYのCUGを活用した、現代風に言えばSNSで、特定のメンバーだけが参加できるSNSのようなものだ。ここでは開発にまつわるあらゆる事項が議論された。また総合的にも個別にも正確な進捗管理ができた。このプロジェクトに関わる全員が参加し、すべてネットワーク上のオープンな場でやりとりが繰り広げられるのことから、否が応でも情報共有が図れてしまうのだ。細かい技術的なやりとりでは、個人の能力や理解度などが赤裸々に現れ、出来ないのに分かったふりをすることができない仕組みだった。勿論24時間いつでも発言でき、記録されているから議事録作成も不要なうえ、多くの書き込みは内容によってはそのまま仕様書やマニュアルになった。いきおい、開発に向かない人は、徐々に一般事務や雑務的仕事に移ることとなった。しかし部内の仕事は多様であり、好き嫌いは別として皆がそれなりのポジションをキープしていた。リーダのKは、CUG内の各発言に重みをつけて各人を評価していたが、説得力があった。一流国立大学の工学部を出ていても殆ど設計できない人もいたことや、一方無名工業高校出身の新人が素晴しい技術力を発揮することに驚いた。

Mのアイディアだったと思うがRISプロトコルと称する共通標準ライブラリを揃えることにより、MS-DOS、Towns、Windowsそれぞれの端末ソフトから同じ呼び出し形式でサーバ機能を使えるようにした。当初の数ヶ月は週に1回の進捗会議でそれぞれの呼び出しフォーマットなどの規約検討に費やされた。序々にコーディングも進み、特定の部分がオンラインで動作するようになったことがリーダのKから知らされ、夢が本当になりそうで嬉しかった。今でも残念なことだが、私は実行部隊から外されており1ステップもコーディングさせてもらえなかった!
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2.5 協力会社と当時のシステム環境

協力会社のシステム工房東京は、FM16βで動作するツーカーシステムというパソコン通信システムを作った実績があった。パソコン通信が世に出た頃、私と友人の高瀬が富士通マイコンクラブで作った8ビットマイコンのFM8(*1)で動くたった1チャネルのシステムと異なり、4チャネル同時にアクセスできるというエレガントなシステムだった。当時はバブル崩壊の直後で、ソフトハウスは仕事が極端に減っており、システム工房東京も例外でなかった。当プロジェクトでの採用面接では、富士通高松支店営業部長とシステム工房東京親会社の四国化成専務、システム工房東京社長、同技術部長が必死に自社の技術力を説明した。実績部分でツーカーシステム(*2)の記述があったので尋ねてみたところ、ツーカーを知っている人と初めて会ったとのことでいきなり話題が盛り上がった。こちら側としては、通信ソフトの技術を持っていることは渡りに船だったので即決した。
 *1; 富士通が世に出した、最初のPCと言える。当時は、まだパソコン(Personal Computer)という言葉はなく、マイコン(Microcomputer でなく My Computer)だった。ちなみに、パソコンという言葉はアスキーの西社長の造語だそうだ。
 *2: FM16βという富士通のPCで動作する4チャネルのパソコン通信システム。かなりのマニアでないと知らないだろう。

もう一社の協力会社パスカリアはメインフレーム系を得意とするソフトを作っている会社だったが、WindowsやUnixのエキスパートもいるということで採用した。このエキスパートこそが天才Mさんだった。彼については、"天才"のコラムに詳述した。絶対に偉ぶらず、「出来るか?」と聞くと、「う〜ん」と言いしばし考え込み答えがでる。出ない場合は、多くの場合次の日に回答が用意されていた。他に、TOWNSおよびDOS系としてもう一社あったがこれは技術力が低く物が出来なかった。ただし、既に当時TOWNSもMS-DOSも縮退必至で妥当な撤退だった。リーダのKからは撤退命令が遅すぎると注意を受けた。何度かKから進言されたが、踏み切れなかったことに今でも後悔している。撤退決断の遅れは傷口を広げただけだったからだ。優秀なKの判断は時宜を得ていた。私は、少々浪花節的な性格が災いして、判断が鈍ることもあったことを深く反省している。

この頃のシステム環境として、パソコンCPUは80486からPentiumに移行中、ワークステーションはSUNのUltraの出始めでOSはSolalis、Windows3.1リリース、MS-DOSは衰退期、TOWNSは暗雲が立ち込めていた。モデムは14.4Kbpsが最新最速だった。この数年後、モデムは56Kbpsまで進化するが、それで打ち止めとなる。一般家庭におけるDSLや光ファイバー100Mbps常時接続はこの時点でも夢のまた夢だった。当時、数メガバイトのソフトや画像をモデムでダウンロードするというのは何時間もかかり狂気の沙汰だった。実に困難なときに夢を実現しようとしたものだ。しかし、だからこそ誰もが無理と考えることが実現できたのであり、有効な特許も取得できたのだ。その時点の戦略として、DOSとTOWNSのフリーウェア/シェアウェアは容量が小さいことや数も多くその資産を生かすということでこのシステムを考え、MS-DOS、TOWNS、Windows3.1のクライアントソフトを作ることにした。サーバはM、MS-DOSとTOWNSはK、WindowsはリーダのKという布陣で、ごく自然にKがグループリーダになった。これは特に私が考えた布陣でなく、優秀な彼らが勝手に作ってしまったのだ。私は部長級のマネジメントだったが、実質的に何もしてなかったと言われても返す言葉がない。
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2.6 RISシステム概要

さて、RISは単にソフトを回線経由でインストールするという分かり易いコンセプトと、プロトタイプが出来上がっていたので将来のビジネスも考えやすかった。違法コピー防止とかインストール失敗防止なども様々なアイディアがでて、特許にも反映されるのである。時間の経過と共に、何を誰にどう売るかという具体的な検討もプロジェクト結成前にかなり醸成された。個人ユーザ、中小企業ユーザ、大企業ユーザ、従量課金、トラアイルサービス、アップデート、会員制サービス、サーバ売りなどとあらゆる切り口(*)で検討し、実施時の基本的な骨格はある程度見えていた。特筆すべきことは、それらを全て特許に反映したことだ。これには後日談があり、いつか詳述したい。この頃は、まさか失敗するとは夢にも思わず、オンラインで世界を支配しようと考えていた。しかし、現実には低速モデムによるダイヤルアップアクセスという壁が最後まで立ちはだかり、さらに最もダメージを受けた社内抗争が勃発したのだ。
 *: これらの重要な部分はマイクロソフが現在もこのとおりサービスしている

このプロジェクトの凄いところは、RISプロトコルのみならず、端末ソフト3種、顧客管理ソフト、課金ソフト、クレジット決済機能など、オンラインビジネスに必要な総ての機能を自前で作り込んでしまったことだ。というのも、パソコン通信はインターネットと違って、高機能通信手順とそれに付随するミドルウェアなんてものは全く無かった。無手順の垂れ流し通信方式で、バイナリも通すが基本的にテキスト通信だったのだ。作った物を比喩的に言えば、「オンラインインストールに特化したアメリカオンラインのようなサーバとクライアントそして通信方式までをも独自に作り込んでしまった」のだ。この言は、リーダのKの受け売りだが、彼の言葉の残像が私のメモリから今も消えない。

上記に加えて、旧来型(無手順の)のホストとメールシステムも作ってしまった。これは私のこだわりである。こだわりとは、DOSの資産継承を高機能型(リッチクライアンント)で対処できない場合、無手順で実施したかった。自前でメールやCUGなどをできるようにしておきたかったのだ。つまり、最悪のケースでもこの数年前に私がオンライン機械翻訳サービスで実施したように、無手順メニューで選び、最後にZMODEMなどのバイナリプロトコルで自動稼動するプリミティブなレベルのRISも考えていた。これには確かシステム工房だけでなく池上さんも手を加えたか?今となってはよく思い出せない。RISのユーザには電子メールアドレスを付与することにもした、これは万一NIFTYなどパソコン通信業者との連携がうまく出来なくとも自前のシステムを提供できるようにしたかったのだ。これらの無手順のライブラリが、後日の大事件の後の融合策に威力を発揮するのである。

顧客管理系、課金系のレコード設計は、システム部門のS課長とその部下のXが担当した。後に、S課長は当部に異動することになる。我々のチームの凄いところは、DBであれ何であれ、それに必要な言語を直ぐに我が物として使いこなしてしまうのだ。Sチームの後を継いだ天才Mは、Sチームがやり残した論理設計を一人であっという間にやってしまった。元来プログラミングは論理的な考え方のできる人だったら誰でもあるレベルでできるのだが、異なるプログラム言語を短期間に習得し使い分けることは簡単なことではない。比喩すれば、短期間に英語とフランス語とロシア語を覚えて使い分けるようなことは誰にでもできることではないのだ。

天才Mは、第二外国語にロシア語を履修したようで、ネット上ではロシア人名を使っていた。恐らくロシア人の彼女がいたのだろう?英語も堪能で、"こいつはいったいどうなっているのだ"と思った。TOEICの成績も私の部では一番だった。彼とは何度かシリコンバレーに出張したが、宿のあった地名の"パロアルト"とはスペイン語で"高い木"という意味だと教えてくれた。スペイン語も堪能だったのか?私は社内教育訓練コースでコロンビア人とメキシコ人の二人の先生からスペイン語会話を一年やったが全く身について無かったことをこの件で思い知らされた。ただ、教科書に掲載されていたシエリトリンドは今でもソラで歌えるが、簡単に覚えてしまったことを思い出す。

とにかく、ありとあらゆるものを作ったが、各クレジット会社との交渉や社内の経理部門との調整などにどんなに時間を費やしたことか!これらの交渉を通して、クレジット会社が何をやっているか、どのようなシステムなのか、その人材としてどのような人がいるかなどが良く分かった。長い交渉だったが、メジャークレジットは総て対応できるようにした。これらの社内外部門との交渉は勿論私の仕事だが、リーダKの粘り強さや優秀性を再認識することとなった。クレジット会社との手数料交渉については、本社の財務部門が間に立ってくれた。この時の財務部長が寮友(*)だったことから担当のX課長からも手厚く支援してもらえた。担当の若い課長は、事務屋にしてはフリーウェアとかパソコン通信などについて良く理解していたので印象に残っている。
 *:同期入社の雀友でもあり、現在私が経営する会社設立についてもアドバイスをもらっている。
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2.7 天才プログラマ達

長い期間にわたりソフトウェアの仕事をしてきて二人の天才プログラマーに遭遇した。その二人とはこのプロジェクトで出会ったMとZさんだ。社員だったMと協力会社から派遣されたZさんにはエピソードがいくつかあるので別途記述したい。Mは東大の修士課程を出て研究所に入社し、技術論ともなると誰にもひけをとらなかった。しかしZさんは天敵のごとくMに異論を挟む(*)のである。Mのプログラミング能力を示すものとして、私が何かの機能を言う(仕様書を書いてでなく)とほんの数日で1000行から3000行のプログラムがバグ一つなく出来上がり、一方Zさんの場合も「こんなことはできるか」と皆で議論したことが翌日になると「こうすればいい」となるのだ!Zさんの場合、課題が気になって寝られず結局明け方になって解決策を思いつくが、そのとたんに睡魔に襲われその日は午後や夕方に出勤となるとのこと!これほどまでに仕事に打ち込めると本人は楽しいだろうが、普通の会社だと表面しか見てくれず勤務評定は最悪となり首になるだろう。もう一度彼らと仕事をし、あの楽しさと緊張感を味わいたいものだ。
 *: ZさんとMは犬猿の仲のように読めるが、互いに技術を軸として敬愛しあう大変良い関係だった。

Mは「新規アイディアは出づらいが、何をするかがはっきりすればコードが湧いてくる」と言っていた。極端にバグを嫌い、文章に対しても同様であった。絶対に間違いのない文章を書くように心がけており、ちょっとでも間違ったまま送付すると、非常に悔しい思いをするそうだ。彼は私の通勤ルートに住んでおり、時々バスから彼を見かけるが、ほとんどの場合リュックを背負い本を読みながら歩いていた。子供の頃偉人伝で読んだ二宮金次郎さんのスタイルで、交通事故に遭わないようにと祈るばかりだった。一方、Zさんも、Mに負けず劣らず素晴らしいコードと文章を書いた。彼は元々メインフレームのプログラマだったが、Windowsの込み入った機能や入出力条件を完全に自分のものにしていた。よく寝食を忘れるというが、彼の場合は本当にそんな人で、1ヶ月以上風呂に入ることを忘れ、袖口が真っ黒になり、白かったワイシャツが灰色になり、体全体が異臭を発していた。私が入社時に配属された衛星通信研究部のTさん(*)も、独身の時はこうだったそうで、近くに寄ると臭っていたと同僚から聞いた。私はMやZさんと話したり彼らのBBSへの書き込みを読むたびに活性化され、やる気が沸いてきた。
 *:数年前お亡くなりになったTさんとは、ある時ラスベガスの歩道でバッタリお会いし互いが驚いた。その時のTさんはフィンランドの携帯電話会社ノキアに転職されておりコンベンションでラスベガスに来られたとのことだった。Tさんも天才だったが、一緒に仕事をしたことは無い。

上記天才以外にも忘れがたいエピソードがいくつもある。面白いことを一部紹介する。Sは大阪の工業高校を卒業して富士通の子会社FOMに就職したばかりで、ソフトセンターの雑用を手伝っていた。背が低く、痩せて、目が細く、外見は私そっくりだった!何を聞いても声も小さいうえに内容もはっきりしない。一言でいうと、ボーッとした感じで、大丈夫かと思っていた。彼に「DOSベースのUNIX習得」というC言語プログラミングが記述された本とCコンパイラなどを渡したが、すこし経って「どうなってる?」と聞くと、「終わった!」という。本当か?と思いながら、そのままになっていた。RIS開発が本格的にスタートした時に、グループリーダKの彼に対する最初の面談結果も私と同様「大丈夫か?」という報告だった。彼はホスト系の開発チームに入ったが、初期のプロトコル検討会などでの発言は皆無だった。ところが、開発が佳境に入る頃になるとBBS(*)に書き込まれた天才Mの見解に対して意見をアーだ、コーだとガンガン書き込み、プログラミングでも素晴らしいパフォーマンスを発揮した。しかし、相変わらず殆ど喋らず、喋るとなんだかはっきりしなかった!彼のようなタイプは、誰かがその才能を見つけてやらなければFOMでやっていたソフト製品を右から左に流す単なる作業員で終わってしまっただろう。一般的な会社の採用面接試験だと九分九厘アウトになると思う。今はどこで何をしているのだろうか。もしこれを読まれたら連絡を乞う。
 *:Bulletin Board Systemの略称で電子掲示板と呼ばれ、Facebookやミクシーなどはこの機能の延長線上にある。企業内や学内のUNIX端末間通信や、パソコン通信の初期の段階から、メールとBBSが最も重要なファンクションであり、今後もそれが変わることはないだろう。

プロジェクトには入ってなかったが、個別のライブラリなどを外注していたヒューマンインターフェースの池上さんが連れてきたWもユニークだった。池上さんが採用するだけあって、プログラミング能力は優秀だった。しかし、なんとなく会話が下手だったし見た目も暗かった。飲み屋に連れていってビールをコップ2杯くらい飲ませると、やっと話しがスタートしNIFTYの仕事では韓国に出張させられてひどい目にあったなどの面白い経歴を話してくれた。彼もある種のプログラミングハッカー的な人だった。池上さんの情報によると、クライアントが変わりながらも引き続き一匹狼でプログラミングを続けているそうだ。この業界は意外と狭く、力を持っているプログラマの数は限られているので彼の技術力であれば十分に食っていけるようだ。

コンピュータ業界のソフトウェア技術者の社内異動は、まず開発、次はSE、最後に営業、それも向いてない場合は他業界へ転出というのが図式のようだ。但し、こつこつプログラムするよりもSEの方が好きという人もあり、SEの方がプログラム開発者よりも技術力が劣るということではない。新機能などを考えるのが好きな人は企画部門などに異動する例もある。後年、私は富士通のソフト開発子会社のプライムソフトに在籍するが、斉藤社長の弁だと社員の30%しかコーディングできないとぼやいていた!それ以外の人は、SE、テスト、改版管理、間接部門の営業や総務などだ。
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第3章 開発の状況


3.1 MO鍵開けシステム

ソフト流通プロジェクト部の組織として、プロジェクトスタート後しばらくしてRIS以外にMO流通の鍵開けソフト担当として、法務部出身のH担当部長、N、Tのラインアップができた。MO流通のコンテンツは有償製品のみを考えており、フリーウェアのようなものを考えていなかった。そういうことから、フリーウェア収集担当だったZはまだKのグループにいた。しかし、このころプロジェクト管理部というのが出来て、H担当部長がそちらに転勤することになった。H担当部長は著名大学の工学部出身だったが何故か大型コンピュータソフトウェアの開発部から法務部に異動したとのことだった。何度か彼と話す機会があったが、PCや通信に対する技術的な興味が無くアイディアや意欲も感じられなかった。彼の経歴や志向から考えても開発に向かないと私は思っていたから、彼が異動したいと自分から希望したことで一安心した。一方、MO鍵開システムの開発は私が多少面倒みることでRIS開発部隊の片手間でできると踏んでいた。

MO鍵開けシステムの母体は、私がプロジェクトスタートの前に毎夜設計書を書き、ヒューマンインターフェースの池上さんがコーディングしたデモ用RISシステムである。これと天才Mらが作った課金システムを合体させたものが実際に鍵開けビジネスに使われた。私が設計したシステムは完璧だったが、鍵開けビジネスは全くダメだった。そもそも我々RISを推進する人たち、特にK、K、Mの三羽烏のみならず多くの技術者は鍵開けビジネスなど存在しないとの考えだった。実際にも現在そのようなビジネスはごく一部のシェアウェア以外に存在しないのだ。

さて大事件について書くまえに、それに関連する事柄を記載しておこう。今ではMOというとニッチな可搬媒体で、DVD-Rの普及によりほとんど風前の灯火のような状態だ。しかし、当時はマッキントッシュの媒体としてある程度認知されていた。画像処理を得意とするマッキントッシュをツールとして使うデザイナーなどには必需のメディアだった。片やWindowsの世界でも、フロッピーディスクでは扱えない大量の画像データを記憶できること、CD-ROMよりも一回り小さいフロッピーディスクサイズであること、メディアがケースに入っており読み書きのエラーが殆ど無いことなどがヘビーユーザに珍重されていた。さらに、ネットワークスピードが遅く数十MBのオンラインデータ転送は事実上無理だったことなどもMOの存在を助けていた面がある。

富士通では、3.5インチと5インチのMOドライブを設計製造しており、他メーカとトップシェアを争っていた。しかし、装置も媒体も高価なことや当時の一般的なPCユーザは大量可般メディアを必要としなかったことから売上げは伸び悩み、損益的にも課題を抱えていた。MO事業部長はOさんで、そのソフト技術アドバイザがS部長だった。OさんとS部長が大事件の裏側にいたのだ。その後七、八年後だったと思うが、あるときS部長が当時私が勤めていたCSR社に来たことがあり、社長と三人で飲んだが、事件の負い目からか私の目をまともに見ることができなかった。S部長は富士通を定年退職し、DBをメモリ上に展開して高速化するというアイディアをビジネスにしているKという会社の技術営業のような仕事をしていたようだ。今もその会社は存在しているが、私の知る人は経営陣に無く、バランスシートの公開もない!
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3.2 米国ベンチャーとの提携

米国のミネソタに本社があるXYZ社は全米にMACの周辺機器やソフトなどを通信販売していた。パソコン雑誌に広告を出し、郵便や自社内のコールセンターで受注するという方法だった。その社長のR氏は、ネットワークの伸長に目をつけ、ソフトをオンライン販売するというアイデアを持っていた。このための販売会社を設立し、富士通の出資も仰いでいた。オンライン販売の為にRISの特許も使いたい意向であったが、独自のアイディアを特許申請しているとのことでもあった。これに協力することで我社のMOの販売も増やしたいというMO事業部の思惑があり、私が担ぎ出された。なぜオンライン販売とMO拡販とが関係するかというと、S部長のアイディア(*)であるがMOメディアを販売する際に、暗号化したアプリを入れておいて、その複合キーをオンラインで売れば商売になり、顧客が単にメディアとして使いたい場合は暗号化したファイルを削除すればいいというもの。
 *:全くビジネスにならなかった。このシステム開発も私が関わったが、それも今後詳述しよう。

しかし事業部は赤字なこともあり、投資資金確保は困難であった。一方、新規事業を目論む特別プロジェクトのソフト流通部は予算的締め付けは無かった。そこに目をつけられたしまったのだ。私はXYZ社への出資交渉の為に厳寒期のミネソタやシリコンバレーに何度も出張した。法務部のA課長が交渉する際の技術支援が私の役割だった。時差ボケで苦しいなか数日間長時間の交渉には本当に閉口した。しかし法務部から派遣された若いA課長は疲れも見せずに交渉することに感心した。FUJITSU AMERICA Incの弁護士H氏と法律事務所の2人の米国人弁護士と長時間付き合うことになったが、彼らのドキュメント作成能力の高さには驚いた。大量のデータベースを持っていてクライアントの状況に合わせて編集していたのだろうが、それにしても一晩で10センチ以上の厚さのドキュメントができてくるのだ。米国がドキュメント国家であり、あらゆるものがマニュアル化されているとは知っていたが、聞きしに勝るというのがこのときの印象だ。弁護士事務所はスタンフォード大学に隣接したビル群の中にあって、小柄な女性弁護士が担当だった。我社の弁護士H氏はスイス国籍で、フランス語なまりの英語が聞きづらかったが、何日も付き合っているうちに慣れた。特許に関する法律用語や技術上の課題については、出張前に特許部のK課長が手ほどきしてくれた。

S部長はXYZ社の担当として、MOの事業部長から特命を受けており、定期的に特許がどうの、ビジネスがどうのと私に電子メールを送りつけてきた。そして課題の解釈や調査結果などを私に求めるのだ。しかし、彼自身は技術的にも法律的にも実のところが分かってないから、彼の質問の中身は希薄というか、ズレていた。私には彼が問いかけてくる質問の一端をもつかむこともできないことがあり、しばしば適当な返事でお茶を濁すようになっていった。一方、法務部のA課長は契約事項のどの部分が法律的にどう問題で、富士通としてどのようにしたいかを適切に説明してくれるので、私の役割部分もよく分かった。A課長は柔道の有段者だった。高校大学の選手権では、寝技に持ち込めば体重100Kと腕力を使った袈裟固めで100%勝てたという。もし彼と殴り合いの喧嘩になっていたら、3分であの世に持っていかれただろう!実は私も少々柔道をやったが、やられまくっていたので受け身だけは今でもできる。

このXYZ社は、今ではNASDAQに上場され世界中に顧客を抱えている。設立者のR社長は、実にユニークな人だった。彼は、何度か日本に来たが、飛行機は必ずエコノミーだったし、大きい穴のあいた靴下を履いていた。米国では人前で靴を脱ぐ習慣が無いので、穴が開いていても別段問題は無い。しかし、パロアルトの菊寿司の和室に招待した際に靴を脱いだことで我々にバレたのだ!早朝にレストランでのミーティングもあったが、彼が払う際は最も安いファミリーレストランだった。とにかく絵に描いたような節約家なのだ。投資交渉がほぼまとまった1994年の3月、ミネソタでR社長、当社Y経理部長、駐在員Mさん、私の4人で契約締結の最終打ち合わせをした。駐在員のMさんは事務系で文章力のある優秀な人だった。この時は、ケチなR社長からミネソタで最も高級でおいしいという英国レストランに招待された。英国料理は不味いというのが定説だが、このときは大変美味しく、ウェイトレスも美人だった。たしか、この仕事で厳寒期に三度ミネソタを訪れた。夏場は大変良いそうだが、冬場は最悪だ。とにかく寒く、外でのスポーツはアイススケート、アイスホッケーとスキーのみだが、それも寒すぎて出来ない場合がよくあるそうだ。冬場の天候を考えてか、モール・オブ・アメリカという大きい温室のような建物のショッピングモールがあり、そこは常夏のようで大勢の客が入っていた。私は痩せていて、特に寒さに弱いのでここには住めないと思った。
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3.3仕事外のこと

この頃、頻繁に米国に出張していたが、仕事以外で印象に残っていることは、弁護士事務所があったスタンフォードビジネスセンターのスタンフォード劇場という映画館でEndless Summer IIの封切りを見たことだ。私はサーフィンが趣味でサーフィンフィルムの傑作として世界中のサーファーが知っているEndless SummerのVHSビデオテープを持っていたが、その第2弾が劇場で封切りされたのだ。この頃、出張する度にサーフィンビデオを買ってきていたが、1960年代の有名なものを全て揃えた。しかし技術の進歩はビデオテープを駆逐し、VHSビデオはデッキがいつ動かなくなってもおかしくない状況になった。しかたなくデッキが動くうちに全てDVDに焼きなおした。一方、そのころサッカーのワールドカップが米国で開催され各都市で巡回興行されていた。シリコンバレーでもスタンフォードスタジアムでロシア対カメルーンの試合が行われた。仕事で一緒だった米国人弁護士によると、切符は売り切れということになっていたが、ダフ屋が買い占めたものの売れ残りが開催直前に投売りになるとのこと。それを信用して出かけたら、定価よりかなり安く買えた。中に入ってみると、ほぼ満員だった。当時アフリカ代表のカメルーンは無名のチームからのし上がってきたことで話題をふりまいていた。しかし、その時の対戦相手ロシアは非常に強く、カメルーンは大差で負けてしまった。当時も今も出張でお遊びは例え時間外といえども硬く禁じられている。上記の話は時効とさせていただきたい。
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3.4 SGML

当時富士通社内ではマニュアル作成にSGMLの導入が叫ばれ始めていた。関連するドキュメント部門のみならずRIS開発をしていた私までもが呼び出されて往生していた。それより数年前、SGMLは私が子会社富士通ドキュメントサービスから沼津工場に出向しメインフレームのドキュメント作成などに従事していたころ米国にてのろしが上がり始めていた。元々IBMのGMLをベースにした考えで、この派生がXMLやHTMLだ。IBMの懐の深さには恐れ入る。当時のFDLで私はこの類の論文翻訳を担当したが、マークアップ、ハイパーリンク、レンダリングなどの単語の翻訳に往生した。そんな言葉は世界でもまだ先進技術者のみの隠語で、勿論辞書にもなかった。当時はWebも身近になく調べようもなかった。当時一緒に説明会に参加したIBM育ちのKさんは、「GMLの概念から逸脱してないね」などとのたまうのだ!SGMLの大家だった米国人Goldfarb氏が富士通に招聘されたりしていた。後年、友人のTの会社の仕事に関与しているということで、シリコンバレーで紹介されたこともある。
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3.5 SPIRIT

RIS開発スタートの頃、富士通では管理職に対してSPIRITという『目標管理評価制度』がスタートした。米国では標準的な評価方法らしく、今でこそ多くの企業に導入されているが、これこそ入社1年目の私に引導を渡した(*)Mさんによって日本の大企業としては最初に導入されたエポックメイキングなものだ。Mさんは米国駐在経験があり、米国の人材評価制度を研究してきたのだ。富士通の成果主義は失敗だったとされているが、私自身はMさんの先進性を評価しており、彼を叱責する気はまったくない。成果主義の導入は時代の必然であったが、旧来の伝統的な考え方である年功序列や時間報酬を否定するもので、評価する人の技量と見識が問われるのだ。つまり、この運用には米国の一流会社のように多数の優秀なマメジメントを必要とするが、富士通では残念なことにそうは問屋が卸さなかった。たまたま景気低迷から上昇に移る時期だったからどうにか運用されていたが、実態は悲惨で後年"内側から見た富士通「成果主義の崩壊」"という元人事部員の暴露本が出版されベストセラーとなった。この本には、社長を頂点とする評価者のレベルの低さや会社側のアンフェアな実態が暴露されている。私はというと、先端技術の開発であり、もともと直ぐに成果の出るものでもなく、AでもBでもCでもいいけど、Dは困ると思っていた。実際には、AAになったり、後に述べる大事件で事業部長に逆らってDになったりして波乱万丈だった。なお、RISの開発を待つためにコンシューマ商品事業部でA事業部長の前に座らされていた時はCだった!
 *:入社1年目独身社員寮に入ったが狭い部屋とまずい飯などに対する改善運動をしたところ勤労部に呼ばれ「そんなに会社が嫌なら辞めろ」と若い部員Mさんから叱咤された!今となっては考えられないが、若気の至りだった?後年、Mさんと私はマルチメディア本部で部長として席を並べることになろうとは互いに知る由もなかった。
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3.6 General Magic

この頃、シリコンバレーで元Appleにいた情報経済学の世界的権威と称するMarcPorat氏がGeneralMagicという会社を設立して「ネットワーク内を自律型のエージェントが勝手に行き来して必要な情報を集めたり、処理したりできる」、その通信技術は「テレスクリプト」で、ソフト技術は「マジックキャップ」だと発表し、間違いなく完成できると吹聴した。これに対し、富士通では、S社長から全社員に提携に関するコメントが電子メールで伝えられ、この技術は世の中が一変するようなことであり富士通もこれを使って明るい未来を創成しようという内容が記載されていた。有り難い仰せではあるが、通信、回路、コンピュータ、ネットワークと何にでも手をだしてきたマニアの私の技術ノウハウでは高性能ウイルスを撒き散らすことにならないかい?という感想しかなかった。教科書で習った通信技術論では"request to send"を出すと"clear to send"が返ってネゴシエーションが確立され云々と学んだ。つまり互いのやり取りを切断したら再度最初から約束事をくりかえすことで互いの信頼を取り戻すのだ。しかし、Markさんの言い分だと、エージェントがあればその必要は無いという。この時思いだしたことは、新人教育の際に教育係の数学の天才鈴木師匠が私に言った「ある未知の工学的現象を現出させようとしても、数式化できないものは実現できない」ということだった。工学として確立している通信制御理論の枠を逸脱する「テレスクリプト」はそれを数式で表せない限り失敗すると言えよう。プログラムだって簡単な論理式が大量かつ複雑に組み合わさった数式とも言えるのだ。

ところが、当時アップル、ソニー、モトローラ、松下、東芝など名だたる大企業が提携という名の資金投入に乗り出し、富士通も一枚かんだのだ。結果的には大失敗というかペテンにかかってしまったのだ。第二のマイクロソフトという美味しい匂いと勝ち馬に乗らなければという焦りが、物を作ったことのない各社の経営企画室の人達の特攻投資を促したのであろう。富士通側の技術担当として旧知のKさんとTさんが参加していたが、最後まで同社からは動作理論説明やライブラリ提供は無かったようだ。富士通のみならず他の有名大企業でも技術的に実現不可能なサービスだと指摘できる専門家がいなかったのだ。これ以降現在に至るまで新技術開発に対する富士通の体たらくぶりには目をおおうものがある。この後、富士通の飯の種は徐々にシステム構築に移行し、直ぐに儲かる単なる力仕事で稼いでいるとも言えまいか。最近では富士通発の技術やサービスが見えない。現在のシステム構築に関する売上げは、富士通の先輩が築き上げた遺産である顧客からの信用がベースになっている。このままでは早晩その厚化粧がバレるときが来るであろう。その傍証として、東京証券取引所のシステムダウンがある。私が数回経験した富士通のシステム構築ビジネスでも、似たような経緯を辿ったので後述する。

何の因果かこの数年後、このGeneralMagicの残党が開発したWebTVの導入に私がかかわることになるのだ。GeneralMagicとほぼ同時に、SUNからはJAVAが提唱されたが、JAVAは生き残った。当時、今も師と仰ぐFさんから双方について見解を聞かれ「GeneralMagicもJAVAも技術論が無い、眉唾では?」と答えたことを後悔している。実はJAVAも当初触れ込みは、GeneralMagicのように夢のようなことも言っていたが、開発が進むにつれどんどん出来ないことを切り捨て実務的な言語に変貌した!分かりやすく言えば、JAVAにしかできないことは無い。多少言いすぎでも方針を変更して生き残る道を探ることは良しとしよう。しかし、Marc氏のコンセプトは、方針変更出来ない根幹部分だったのだ。彼はそれ以降マスコミからは完全に姿を消した。恐らく、かき集めた大金を手に、カリブ海のコテージでワイングラス片手に沖合いをみながら、風の具合次第では、大型ヨットを繰り出していることだろう。

シリコンバレーのビジネス(*)は、古くはHPやCISCO、このところはYahooやGoogleが伸しているが、瓦礫の中からダイアモンドの原石を見つけることは至難の業であることを上記は示している。また、技術的裏づけのないキラキラした言葉の表現に惑わされると、煮え湯を飲まされることになる。私もRIS開発などにからんで、ほんの少しこれらのビジネスを現地で体験したり見聞きする機会もあったが、やる気十分で純粋な人が中心になり人々が求める機能やサービスを技術的に間違いの無い方向に一直線に進みながら開発していける会社のみが生き残れるのだ。但し、その間違いのない方向を見つけることと資金調達が私を含め凡人には大変困難なのである。
 *:執筆時は2000年頃
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