我が家に来た詩人達

親爺が最も好きだった仲間の詩人は森川義信だろうと思います。ただ、彼は我が家に来る前に死んでしまいましたが。

追記:2014/05/22
昨夜詩集"架橋の終刊号"、"木原孝一追悼号"を読んでいたら、親父のエッセーがあり、木原がわが家に泊まった時のことが出てきました。私は、木原孝一と田村隆一を混同していたようです。何しろ60年近く前のことですから!荒地の詩人は都合三人わが家で泊まっていたのです。

追記:2014/12/27
鮎川と田村の写真を追加しました。実家の飾り棚にあったのでスキャンしたのですが、なぜか今は無い?
●我が家に来た詩人達  2010/11/1

我が家に来たことのある詩人として、鮎川信夫が私の幼稚園の頃に一泊した。おぼろげな記憶だが、翌朝防波堤に座って海を見ながらたたずんでいるところに私が親爺の下駄をはいてカラカラと走りながら朝飯だと伝えにいったことを覚えている。鮎川は親爺に「お前に似つかわしくない息子だな」と言ったそうだ。夏だったのでパンツ一丁で大人用の下駄を履いて幼児が大声で朝飯だと駆けてくるのだからそれは圧巻だったろう。いつも憂鬱そうな顔をしていた親爺と野生児そのものの当時の私は全く正反対だった。母の鮎川に対する思い出は、我が家はとても狭い家なので寝る場所が無く、私のベッドに寝てもらったがとても背の高い人でベッドの端から足が出ていたということである。



 裏の突堤で煙草を吸う鮎川(親父のジャケットとゲタは、大男の鮎川には寸足らず!)

もう一人の我が家に泊まった詩人は、田村隆一である。私が小学生の頃だったと思うが、めちゃくちゃ酔っ払って私のベッドを占領したので鮮明に覚えている。次の日の朝になると何事もなかったかのようにすっきりと起きて海岸を散歩していた。田村の酒好きは有名だったので、お袋はそれなりの量の酒を用意していたが、それも足りなくなり、最後は酢を飲んでいたそうだ。酩酊状態になったので、酢も酒も分からなくなっていたのだろう。



 何を見るのか田村、一編の詩でも浮かんだか?彼も大男だったそうだ。

ついでに他の詩人についてメモっておくが、親爺が第一回地球賞をもらった時私は通信とコンピュータを生業とする会社に就職し川崎に住んでいた。この授賞式に行って初めて会ったのが、中桐雅夫、木原幸一、黒田三郎、北村太郎だった。親爺はこの世界では無名だったから友人等が気の毒がって賞を与えたというのが本当のところだろう。青山会館だったと思うが授賞式があって、全員が授賞式後の飲み会に親爺を連れて行きたがっていたが、親爺はきっちりと断っていた。その帰り道、親爺の弁は「あいつらに付きあっていたら帰れなくなる」だったと思う。彼らの飲み方が半端でないことは戦前からの付き合いで百も承知だったのだ。

同郷の詩人として桑島玄二は、親爺の親友だったのでよく我が家に来て文学論をぶっていた。すごく優しい人で、長い時間楽しそうに親爺と喋っていたことを思い出す。田舎で会社を経営していたが、後に大阪芸術大学の教授になった。森川義信は香川県の三豊中学、親爺は大川中学出身で、荒地以前に互いに"若草"などに投稿していたことが縁で知り合っていたようだ。文通を繰り返し、旧制中学時代に高松で落ち合ったことがあると話していた。鮎川は早稲田で森川と濃密なつきあいをしていたようだが、親爺も森川とは特別の関係だったようで、「戦死しなければ」といつも残念がっていたことを思い出す。

追記:木原孝一もわが家で泊まっていた 2014/05/22

親父の記述によると、「…木原は大変な元気で拙宅の夜は大いに語り、深夜に及んで用意した酒がなくなった。(略)…まだ家も暮らしも不自由なときだった。病院用の鉄製ベッドにわらマットを敷いたものを小学生だった息子が使っていた。それをあけるから寝てくれないかというと、勘違いした木原は『よしよし』と上きげんで下着になると、隣の部屋で別のフトンでねていた息子の横にはいりかけた。後年まで息子は『ぼくと寝そうになった詩人』と木原のことをいっていた。…」とある。この文章を読んだとたんに子供の頃の貧しかった暮らしを思い出した。当時の私には、ごくまれに生卵一個を妹と二人で分けてご飯にかけて食べることが最高の贅沢だった。中学生になっても、大人になったら金持ちになって毎日卵かけご飯を食べるぞと密かに考えていたことを思い出す!金持ちにはなれなかったが、今でも温かいご飯があるとついつい卵をかけてしまう。三つ子の魂百までか?
元に戻る