辻井喬の追悼記事を読んで

私は辻井喬氏や中村稔氏に会ったことなく、テレビで見たり、新聞や雑誌の記事でしか見たことがありません。

追記:2014/3/3
川端龍子を知る方はどれだけいるでしょうか?

元アスキー社長の西和彦氏は、学校法人須磨学園学園長、尚美学園大学大学院芸術情報研究科教授、埼玉大学大学院経済科学研究科客員教授、 デジタルドメイン代表取締役社長、アカシックライブラリー代表取締役社長との事。私よりも8歳若く、勿論現役バリバリのようです。
●辻井喬の追悼記事を読んで 2013/11/30

辻井喬と言えば、その実名堤清二が多くの人に知られているだろう。私が大学を出た頃には堤清二が社長をしていた西武百貨店は文系学生の就職ターゲットだった。学生時代のあるとき親父と話していて、堤清二が詩人だということを聞いた。だからどうだということはなく、私は全く詩に興味が無かったからその時のことはそれ以外に思い出せない。ところが、親父の葬儀に辻井喬の名前で花輪が送られてきたことに大変驚いた。辻井は詩人協会の会長だったようだ。彼の指示で親父に花輪を送ったとは思わないが、詩人協会のセンサーは田舎にこもっていた無名詩人の死をもセンスしていたのだ。たった今思い出したが、私には大変嬉しい出来事だった。

葬儀当日に初めてその花輪を見た私は嬉しくて本当に涙が出た。親父は無名だったが詩人協会は敬意を表してくれたのだ。今の私は親父が幼児期に良く遊んだであろう湊川の河口に石碑を建ようと考えている。私が亡き親父にしてやれることは何もないが、湊川河口に土地を購入し小さい石碑を建て、そこは近所の子供の遊び場や釣り人の駐車場になるレベルの広さを確保した公園にすることくらいはできるだろう。多くの人は自身を最も可愛がってくれた親のことを思い出し、なかにはその履歴を残したいと思う人もいるかも知れないが、私が考えているのはこの程度だ。

誰でも親や兄妹のことは忘れられないと思う。なぜなら性格形成期の長い時間を密着して過ごすからだ。それが良い想い出になるかどうかはそれぞれの出来事を踏まえた人生だろう。私の人生はまだしばらく継続するが、それがどうなるかは全てが終わるまで分からない。終末期に向かって毎日のように過去の出来事や気持ちを整理記述しているが、良きにせよ悪しきにせよ感情的なことはどうしても増幅されがちなので自分でも少々記述を控え気味になる。今日は辻井喬の追悼記事を読んだのでふと書いてしまった。

この追悼記事は詩人の中村稔が記述している。私は詩に関する造詣はゼロで彼のことは全く知らないが、親父の蔵書に中村の詩集があり開いたことはある。中村稔の追悼から引用する「辻井喬さんは現代詩のフロンティアを歩んだ冒険家であった。彼の心の矛盾が普遍的なものと信じていたからか・・・」この文章が伝えることは、堤清二の幼児期の家庭生活、企業経営の困難、それらから生じる彼の文学を示すと思われる。単なる私信ではあるが!

追記:日経"経営の視点"を読んで2014/3/3

今朝の日経に、"堤清二氏が残したネタ"との表題で、「藤村ゆかりの宿」と看板に記されたある旅館の若い女将が中高年の客に『藤村(ふじむら)ゆかりさんてどんな人ですか』と聞かれた爆笑ネタを記載している。私も学生時代大勢で伊豆に一泊旅行したことがあり、やっとすれ違うことができる山道のそこここに川端龍子の小さい立て札があり、「龍子(たつこ)ちゃんて誰?」とほざいていたことを思い出し、決して人のことは言えないと思った。特に私は!なお、このカラムの論旨は、堤氏が「パリでは画廊や本屋、雑貨店などチェックポイントを決めて、定点観測を欠かさなかった」こと、世の情勢を捕らえ商品開発などを考えていたそうだ。

堤氏とはスケールが全く違うが、私も学生時代から定点観測場所として秋葉原を散策してきた。世の中の売れ筋や人の顔つきなどで業界の状況が分かるからだ。今もだらだらと店を覘き(*1)新商品などを眺めるのことを楽しみにしている。就職し十数年経った頃、趣味の富士通マイコンクラブの世話役としてアスキー社長の西和彦氏にお越しいただき、"パソコン通信の薦め"として富士通の技術者にパソコン通信が将来に与える影響を講演(*2)してもらった。前座として私が挨拶をし、もちろん西氏の略歴などの紹介が主だったが私自身の秋葉原散策についても少々述べた。すると西氏の講演の冒頭から「秋葉原散策よりももっと他にやることがあるだろう」という趣旨のお話があった。勿論、誹謗中傷でなくある脈絡の一部だったが!
 *1:私の趣味は、パソコン、アマチュア無線、電子部品などであり、昨今の"秋葉モエモエ"には全く興味がない。今でも最も興味があるのはジャンク屋だ。くれぐれもお間違いのなきよう!
 *2:1987年頃だと思う。当時は勿論インターネットサービスは無く、アスキーネットと日経MIXのみがサービスしており、niftyのサービスインはこの講演から1年後くらいだった記憶がある。日経のハイテク雑誌を手がける編集者達の能力には当時から感心していた。現在私が使っている日経電子版というサービスがあるが、彼等の末裔が係わっているのだろうか?
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